これはあまり知られていないことだが、街外れの塔には魔法使いが住んでいる。
どうして僕がそんなことを知っているかというと、まあ、なんと言おうか、僕と彼はいわゆる茶飲み友達、のような間柄だからである。
彼は魔法使いにしては陽気な方で、いつも諸手をあげて僕を歓迎する。魔法使いに戸籍があるかは不明だが、僕には彼がイタリア人かブラジル人に思えて仕方ない。
その彼は、今日も両手を広げて大仰に歓迎の意を表した後、いつものようになんだかよく分からないお茶を淹れてくれた。
紅茶碗のなかには、食紅を溶いたような明るいピンク色がたゆたっている。
「今日は風が強いね」
窓の外に目を遣りながら、僕は魔法使いに言った。
「うん。このところ東向きの風が吹きっぱなしだからね。僕も大忙しだ」
「それではお邪魔だったかな」
僕の言葉に彼は鷹揚に笑って首を振る。
「いや、いくら書き入れ時だと言っても、待っている間は手持無沙汰だからね。ちょうど君が来てくれて気が紛れたところさ」
「それなら良いが」
僕の言葉にうなづくと、彼は眼を細めて遠くを眺めるようにした。
「良い風だ。今年は期待できるよ」
なんだかよく分からないが、彼が上機嫌なので僕も悪い気はしない。
「書き入れ時というのは、その………」
遠慮がちに聞いてみると、彼は猫のような金色の眼をますますまるくして、おやおや、と呟いた。
「そういえば、この街に来てからは初めてだったか。すると、君は何も知らないで話を合わせてくれたのかい?」
僕がいや、まあなどと言葉尻を濁していると、陽気な魔法使いは珍しく心底気の毒そうな顔になって僕にわびた。
「それはすまなかったね。いや、東向きの風というのは実にいろいろなものを吹き寄せるもんで……」
言いかけて、彼が突然、首の落ちそうな勢いで顔を天井に向けたので、僕は危うく手にした茶碗を取り落としそうになった。
「どうかしたのかい」
まだばくばくと高鳴る心臓を抑えながら聞くと、彼は一言「かかった」と叫んでそのまま廊下へ飛び出した。
「おい、かかったって――――」
何が、という前に彼の姿は螺旋階段の上方に恐るべきスピードで小さくなり、取り残された僕は慌てて彼の背中を追い始めた。
* * *
息を弾ませて階段を登り終えると、開け放された扉の向こうに青い空が見えた。
塔の天辺である。
「えい!」とか「この!」とかいう声(魔法使いの)に混じって、何か重量のあるものがぶつかり合うような――あえて言うなら、熊とライオンが取っ組み合いをしているような――どしんばたんという音が聞こえてくる。魔法使いの姿は廊下からでは死角になって見えない。
扉から飛び込むと(正確には扉の外へ出たのだが)、そこはまるで空の上だった。最上階近く、中空に張り出したテラスである。
「おい、大丈夫か?」
言いかけて、僕は思わず口と目を堅く閉じた。顔に風が叩きつける。
ゆるゆると瞼を押し上げる。視界を染める青。びゅうびゅうと風が吹き抜け、息をつくことも難しい。
その、一面の青のなかで、魔法使いがくるくる回っていた。
…………いや、僕には彼が、一人でくるくる回っているようにしか見えなかったのだ。
「なにを………しているんだ?」
「来たのか。なら、すまんが手を貸してくれ!」
よく見ると、彼の両腕は何かヒラヒラした布を抱え込んでいる。カーテンとか、シーツのような大きな布である。
風をはらんでいるのか、布は萎れることもなく膨らんだまま彼の手のなかでバタバタと暴れている。
「手を貸せ、といわれても………」
どうして良いか分からず僕がおたおたしていると、彼は厳しい声で僕に叫んだ。
「早くしないと逃げてしまう。こいつを押さえててくれ!」
慌てて僕は彼のそばに走り寄り、その薄い布を両腕で抱きしめるようにした。
すると、驚いたことに、布のなかには確かに何か大型の動物がいるような、はっきりした手ごたえがあるのだった。
しかもそれが、暴れる。
僕は振り回されながらも、懸命にその何かをおさえつけた。
その間に魔法使いは何事か低い声で唱えると、上着の隠しから壜を取り出した。手指をいっぱいに広げたほどの高さの細口の壜である。
濃い緑の硝子で出来ていて、あまり純度が高くないのか、はたまた厚みにムラがあるのか、光は通すが中は見えない。
彼は壜の栓をとると、布の裂け目に充て、ぎゅうっと布を“絞った”。
すると、たちまち布は軽くなり、へたへたと重力に従って垂れ下がったので、必死ですがりついていた僕は思わず尻もちをつきそうになった。
よくよくみると、布と見えたのは、昆虫採集に使うような目の詰まった網なのだった。
彼はすばやく壜に栓をすると、やれやれ、と息を吐いて額の汗をぬぐった。
「やあ、すまなかったね、手伝わせてしまって」
彼は僕を見て微笑む。
「いや、それは構わないが……一体、今のは何だい?」
僕が問うと、魔法使いはふふふと笑って、緑の壜を片手で振って見せた。
「商売道具さ」
誘われるように、僕は壜を下から覗きこんだ。
厚いガラスは陽の光をほとんど吸収してしまい、ほとんど中は見えなかった。ただ、底の方にとろりとした水がたまっているようなのは、何となく確認できた。
「やはり今年は良い風が吹く。一段落ついたらクローバーのケーキでも御馳走しよう」
手伝ってもらったことだしね、と魔法使いは満足げににやにや笑う。「クローバー」というのは、街に一つしかない洋菓子店の名前である。魔法使いは大の甘党なのだ。
僕は狐に抓まれたような、狸にひっぱたかれたような顔でいたんだと思う。魔法使いは困ったように僕を見、少しだけだよ、と言って壜の腹を僕の耳に押し当てた。
しばらくは何も聞こえなかった。何しろ、風がうるさくて。
あんまりうるさいので、僕はもう片方の耳を手のひらで塞いだ。すると。
―――星が鳴くような。
真珠が坂を転がるような。
魚が笑うような、そんな声で。
壜のなかの不思議は、歌っていた。自分が捕まってしまったこともあんまり気にしていないような、世にも明るい歌声だった。
あまり愉しげな声なので、僕は我知らずメロディに合わせてハミングしていたらしい。壜のなかの声と一緒に、それは僕が聞いた中で、もっとも純粋な―――
「はい、おしまい」
と言って、魔法使いは僕から壜を取り上げてポケットに仕舞った。
「おもしろかったかい?」
「それは、一体何だい?」
海からひっぱりあげられたジュゴンのように茫洋としながら僕が訊くと、なんだ、わからなかったのかと、魔法使いは大げさに肩をすくめた。
「まあ、あんまり長いこと聞いてるとよくないんだ。そういうものさ」
「ふうん」
僕がわかったようなわからないような顔で突っ立っている間に、彼は網を広げてテラスに設えられたポールに引っかけた。
どうやら、網を仕掛けなおしたようだ。
「さあ、階下に戻って午後のお茶のやり直しをしようじゃないか」
「ああ」
彼に促されて、僕は塔のなかへと戻る。
外が明るすぎたのか、廊下に戻ってしばらくは何も見えない。
背後で彼がテラスの扉を閉める音がして、とても静かになった。
* * *
灯りを消して、寝台へ向かう。ふと、思いついて、僕は窓を開けた。
夜の空気は凪いでいて、昨日より幾分暖かい気がした。
雲が流れている。天上ではまだまだ強い風が吹き渡っているのだろう。
魔法使いはもう眠ったろうか。
僕は、壜の中から聞こえた音楽を思い出そうとしたが、あれほど綺麗と感じた癖にちっとも思い出せなかった。
どこからか、花のにおいがした。
もうすぐ春がくるらしい。
(了)
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